03rd 2月2019

スピリチュアル について

いろいろと考えていたのだけれども、中村元「ブッダ伝」を読んでいたら、

「スピリチュアルは、ポルノだな」

と思ってしまった。

シャカを語るにあたって、魂の浄化とか、魂の進む道とか、魂の目的とか、魂の導きとか、魂の繋がりだとか、まぁソウルメイトだとか、インチキじゃねぇか。

「神界と人間界と悪魔界とナントカ界と、縁を切って一人になれ」

ってシャカは言っているのであって、神の導きなんてものはウンコ以下である。

そういうウンコ以下の神の導きだのなんだのに興奮しているのは、ポルノ以外の何であろうか。

そもそも魂の輪廻転生をやめようね、って言っているのに「神界に転生するために魂を浄化しましょう」って何言ってるんだこいつ、ってことで、悟りを開けばつまりは魂は消えてなくなり、簡単に言えば「死んだらおしまい」になるのである。「死んだらおしまい」って当たり前だろ、ってことなんだけれども、そういうことである。

それでは魂ポルノにならないので、魂がなくなって困るスピリチュアリストは魂がなくならないようにがんばるのであるけれども、そうするといつまで経っても輪廻転生から抜け出せないのである。

「魂ポルノ」とは、良い言葉を思いついてしまった。

まぁ、ポルノだから、そういうもので自慰行為にふけるのは個人の自由なのでいいんじゃないでしょうか。

私はてっきり自慰行為集団だと知らずに真面目に悟りの道について問答してしまったので、彼らの自慰行為を中断せしめてしまったので、そこから追放されたのでした。いやぁ、ようやく理解できた。

10th 1月2019

四国八十八箇所 高知編

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トラッカーの距離でいくと、266km、6日間。

徒歩遍路のご参考には全くならないのです。どうせ区切り打ちなんだから、区切りうちでしか出来ないことをやろうと思ってこんなことになりました。それでも、私としては概ね100%楽しんだ遍路でした。

遍路というのは、お寺があって、それをつなぐ道があって、それだけです。そこで何をするかは人それぞれ。歩いて周ったり、車で回ったり、自転車、公共交通機関、バイク等々。

弘法大師がその人にあったやり方で招待するのです。私の場合は「武は歩く姿である」ということも兼ねての遍路ですので、ひたすら歩き方を考えながら歩くというものです。

去年の反省を踏まえて、ムーンスターのスカスカの通気性の良い、ぺらぺらで軽い靴を履いていったので、足の裏の水ぶくれはほとんどできず、非常に快適でした。

ただ、アスファルトを歩くと、微妙な傾斜で右足の外側、左足の内側の筋が痛みました。山道のほうが楽勝です。

膝への衝撃の緩和の仕方なんかを勉強しました。膝に衝撃が加わる前に衝撃を別の場所に逃がせばよいのです。なるほど。

 

s-P_20181230_073337高知室戸へ向かう日の朝日です。太平洋から昇る朝日はすごいよー

s-P_20181230_113248もう、とにかく太平洋。水平線。一日中水平線。途中バイクで来て接待して頂いたお兄さん、有難うございました。

s-P_20181230_143718今回の一つの目的。空海が虚空蔵求聞持法を完成させた場所。なんとなくわかったのは、悟りを開くにはこういうジオなエネルギーがある場所のほうがやりやすいのかもしれないということ。もうひとつは、別にここじゃなくてもいいということ。たまたま空海の場合はここがぴったりでした、ということ。

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s-P_20190103_152854次回は足摺岬!!

12th 12月2018

ワンパンマン

森口博子のエンディングがすばらしいアニメです、はい。

3話。

「いいか、ジェノス、続けることだ。俺は3年でここまで強くなった。立て伏せ100回、上体起こし100回、スクワット100回、そしてランニング10km、これを毎日やる!」「禿げるぐらい死に物狂いで己を鍛えこむ。それが強くなる唯一の方法だ。新人類だの、進化だのと遊んでいる貴様らでは、決してここまでたどり着けん。自分で変われるのが人間の強さだ。」

まぁ、そういうことなんですが。

このアニメ作品のすばらしいところは、さいたまの身のこなしですね、えぇ。

「歩く姿が武」ですから。さいたまは崩れないのですよ。

肩書きとか、いままでどんなことをしてきたかとか、まぁ、あんまり関係なくて。

 

実戦は、一瞬で、一発で終わるのです。

 

その一瞬、一発のために鍛錬するから、示現流は強いのです。一発目をかわして二発目でなんとかしようとか、一発目の一瞬を軽んじるから、示現流に幕末の頃、他流派はボコボコにされたのです。

じゃあ示現流は何をしていたかといったら、ひたすら立ち木打ちです。「そんなことではなくて強くなる為に必要なことを教えてくれ」って言っても、立ち木打ちしかないんですよ、これが。

だから、立ち木打ちをできるかどうか、だけなんです。必殺技とかないんです。現実は地味なんです。

ワンパンマンは、結構本質ついてますよね。

08th 10月2018

悟り に ついて

釈迦の言葉と共に。これは私の自戒のために記す。

 

捕らわれてはいけない。想像するものは現実ではない。私が望むものは全て「現実」に得られた。

 

超能力について

 

イルカは超音波でコミュニケーションを行う。

蛇は赤外線センサーで獲物を追う。

フンコロガシは自分より大きな糞を丸めて転がす。

蚊は獲物に気づかれぬように麻酔を施しながら血を吸う。

人に出来ぬことを彼らは行う。

人智を超えたことを彼らは行う。

これは奇跡であるか。果たして神が創ったか。

 

人は神を見る。

それは人の脳がイルカより蛇よりフンコロガシより蚊より大きいからである。

意識で認識できぬものを、神の御業と見間違う。

それは人の脳がイルカより蛇よりフンコロガシより蚊より大きいからである。

 

人の脳は大きくなった。

それゆえに意識の働きが生命の維持を超えて自我を持った。

自我に認識できぬことを神の御業とすることで自我を保つ仕組みが生まれた。

人が生まれ死ぬことについて魂を創造した。

天界と地獄とを創造した。

人々はそれを自ら創造し、信じ、信仰した。

人々の信仰が波となり人々を覆った。

本当に存在すると信じ込んだ人の波が伝染し、

人々は神を信じるようになった。

 

釈迦は言った。

「信仰を捨てよ」

 

人は、進化において獲得したもので必要なくなったものは退化させた。

退化しただけで、その痕跡は体にある。

松果体は爬虫類のように、ネズミのように、目で見えぬものを見る。

目で見えぬものが見えるからといって、超能力ではない。

気によって知れぬことを知り、気によって人々をコントロールするのは、

はるか昔、単細胞生物であったときの名残、単細胞生物のコミュニケーションである。

よってそれは超能力ではない。

 

宇宙の始まりはたまたまビッグバンが起きただけのこと。

そこからただただ物理的反応が続いてたまたま人が生まれた。

 

超能力者と称する人は、ただ、人である。

イルカや蛇やフンコロガシや蚊と同じように、超能力は人の力である。

超能力を持たぬものが超能力を持たぬのは、必要ないからである。

スプーンを曲げたり人の心を読んだり千里眼であったりというのは、

イルカは超音波でコミュニケーションを行い、

蛇は赤外線センサーで獲物を追い、

フンコロガシは自分より大きな糞を丸めて転がし、

蚊は獲物に気づかれぬように麻酔を施しながら血を吸うようなものである。

人に出来ぬことを彼らは行う。

人智を超えたことを彼らは行う。

人が超音波を聞き分けて、赤外線センサーで熱を感知し、

自分より大きな糞を丸めて転がし、人の血を吸うことと、超能力は同じである。

人に出来ぬことを行い、人智を超えたことを行うものが超能力であるなら、

超能力者は、そのような存在である。

 

執著を捨てよ。執著するものによって苦しみが生まれる。

この世は常に変化し、変化しないものは無い。

形あるものも形の無いものも変化してゆく。

それが法の全てである。

 

先祖供養は必要ない。

親族身内というものは最も執著が強くなるものである。

身内を捨てよ、家族を捨てよ。

 

捨てた後、慈悲によって見よ。

 

人は死ぬ。死んだ後には魂は生まれ変わることがない。

なぜなら魂は無いからである。

 

肉体と精神は同一である為に人であるのである。

肉体と精神とを分離しては人ではない。

まして肉体より精神が出るのであって、精神のみが単独で存在し、

この世の外から飛んで肉体に入るということは無い。

 

私は一人、犀の角のように進む。

 

 

30th 9月2018

弓道について 

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北斎漫画と源頼政の鵺退治図である。

アーチェリーもそうだけれども、「的をねらう」場合は、このような形になる。当然である。

弓道家がこれを見ると「北斎の勘違い」ということを言い出すのだけれど、「動く的をねらって射る」場合はこれが正しい。

ポイントは、右ひじが矢とまっすぐになるところで、このひじと弓手で「ねらいを定める」。

葛飾北斎という男の観察眼は並みのものではない。手首足首が人の表情として絵に表れることを知っているので、特に注意して観察したはずである。その北斎がこのように描いているのだから、これが正しい。西洋のアーチェリーもこのような形になるということは、これが「本来の」弓の扱い方である。弓道しかやったことの無い人は、一度自分の弓でこっそりとこのようにして矢を放ってみると良い。狙い通りによく当たるのである。自分よりも前、すべてが視野に収まっているのでねらうことができる。しかし、「弓道」になると、馬手は耳よりも後ろに行き、視野から外れる。手を耳の後ろにまで引けば、ねらえるはずがない。弓道の形は、ねらうための形ではない。

弓道の場合、「動く的」はねらわない。しかも、的は腰よりも低い位置に「置いてある」。ということはどういうことか。あまりこういうところを弓道家は考えない。

 

「弓道は礼射である」

ということである。弓道の射形は、礼射の形であって、本来実際の弓の使い方ではない。非常に特殊な場合に限定される弓の使い方である。

どのように特殊かというと、「殿様の前で弓の力を100%出して的に中てる」ということである。

戦場で、狩猟で、弓道の射形で当てることは難しい。スピードが必要だからだ。弓道で「早気」というものがある。会に入ってすぐに離してしまう「病気」である。戦場や狩猟、つまり実戦において、矢を放つタイミングは相手の動きにもよってくる。弓道の場合は完全に自己都合である。だから早く矢を放ってしまうことが病気になるが、実戦においては早いか遅いかは問題ではなく、相手に当たるタイミングで放ったか、が問題である。

松波佐平弓具店のHPには東大寺通し矢絵巻があるが、そこの記載に

>一昼夜で一万本以上射るには、一分間に十~十二射射る事になる為に一本の矢が的に当たる頃には、次の矢が弦を離れており、三本目の矢が弦にかかっているという速射だったことがわかります。

とあるので、「会での充実」などしている暇はないのである。これが天保年間のことであるので、江戸時代の通常の弓といえば、北斎の描いたような射方が通常であったといえる。

弓道のような「礼射」は儀式的なものであって、実戦性のないものであると理解したい。

さて、では「礼射」とはなにかというと、弓の力を100%出して中てること、である。では、弓の力を100%出すにはどうするか、ということである。答えは子供でも理解できる。「弓を目一杯ひくこと」である。自分に押し開くことの出来る最大限開ききれば、それが弓の100%である。機械で押し開くわけではないので、弓と射手の複合の100%である。100%押し開いたときにどうなるか、というと、射法八節の会の状態になる。会の状態に「する」のではなく、会の状態に「なる」のである。

馬手のひじと、背骨、押し手の角見のラインが最大に伸びるようにする。そのとき肩甲骨の下側が寄り、上側が開ききることで肩の幅が数センチ伸びる。また、それを利用して脇の下背中側の筋肉を利用して弓を左右に「押し広げる」ようにする。最大限開ききったとき、「馬手に力が入らない」状態になる。「弓手に力が入らない」状態にもなる。「重心が少し前のめり」にもなる。「ひかがみに力が入る」。そういう状態になる。勝手になる。その状態から、左右にさらに数センチ押し広げると「離れ」る。なので、会での伸びあいは矢尺の伸びあいで、詰めあいは肩甲骨の下側を最大限詰めること、といったところである。その状態から、弓の力をさらに引き出すために、数センチ「押し広げる」つもりで開くと離れになる。

なぜ馬手や弓手に力が入らないかというと、背中側で最大限伸びるようにすると、馬手に力が入っていれば、馬手の手首によって腕のスジが引かれて、引きが数ミリ小さくなる。その数ミリを全力で伸ばそうとすれば、手首に力を入れていられない。全力で一箇所に集中すると、余分な場所に力を入れられないのが人である。このようにして上半身の弓手馬手の間隔を、肉体で確保できる最大量とり、さらにそこから伸びようとするとどうなるかというと、ひかがみに力が入り、足の裏で踏ん張ることになる。踏ん張る為には、足の開きの角度は大体60度である。

会の状態を基準として逆算で出したのが八節である。

最大限引ききるとどうなるかというと、足で踏ん張りながら、目一杯ピンと全身張っている状態になる。これは紙や布がぴんと張られている状態と同じで、一つの面を構成する。面は足踏みを基準とする。足踏みのラインで面を構成しているので、的までまっすぐになる。これが全力で引いていないと、からだにゆるみが生じて的をねらわなければいけなくなる。張っていればまっすぐなのでねらう必要が無い。これが「的が見えなくても中てられる」弓道独特の礼射である。

なので、実戦向きでは全く無いので、武術家はアーチェリーをやったほうがいいです。

 

と、書いたところで、以下のページを見つけた。ナイハンチを調べていたら出てきました。

ナイハンチの分解?

清朝における弓の練習と、本部のナイハンチの型の写真。肩の後ろまで引いているけれど、ひじと矢がまっすぐ。ひじと矢がまっすぐであればここまで引いてもねらえる。試しにやってみたが、実によくねらえる。

 

21st 9月2018

目的

弓を5月からやっています。

単純に、武術家が弓くらい出来なきゃいかんだろう、という思いからです。

弓道は、弓術とは異なって、よく分からない精神性を説くことがあるのが問題ですが、
私の入った道場は比較的そういうものが少なかったので助かりました。

私としては、さっと番えてさっと射るのが弓であって、ちんたらちんたらとやる弓道が一体なにを目指してやっているのかさっぱり分かりませんでした。

道場でも形が悪いとか力が入りすぎているとか表面的なことを言うわりに改善方法は誰も知らないという状態です。

そんな中で私個人としては、「たかが弓」というつもりでやっており、段については考えずにひたすら弓を引いておりました。
初段をとることにしたのは、弓術をやるにしても弓道で段を取らねば弓道場を借りれないということからです。

4ヶ月ほどで気づいたことは、「弓道家は、すぐにやめる」ということです。道場に来て20本も射る人は少ない印象です。
「集中力が切れてきたからこれ以上やっても中らない」と言ってやめます。単純に練習量が少ない。

矢は「中る」のであって、「中てる」のではないのです。「中る」のだから集中力は関係が無い。むしろないほうがいい。そのことがあまり分かっていない。私は午前中に道場に入ったら昼飯も食べずにずーっと夕方まで立ち続けます。夕方頃には無駄な集中力がなくなってきてちょうど良くなっています。

私を指導してくださる先生に、「中ればよいのではないですか?」と聞いたことがあります。先生は「中り方というものがある」と答えましたが、多分ご本人もよく分かっていないというか、どう中ればよいか説明が付かなかったのだと思います。

最近漸く弓道の目指しているものが分かりました。弓道家で弓道の目的が分かっている人は多分ほとんどいないでしょう。
弓道の目的は、「弓の力を100%出し切って矢を的に中てること」です。
そんな当たり前なことを、道場で忘れて、表面的な形を求めるから間違いを犯すのです。

弓の力を最大限に引き出すには、単純に目一杯引けばよいのです。それから、目一杯以上に引くために裏的を射るのです。
そのための射法八節です。決まりごとだから従わないといけないのではなくて、一番いいからこうしたほうがいいよ、といって決めたのです。射法八節の意図を汲まねばなりません。

大東流的に弓術を解釈するならば、「弓の力を100%出すことよりも、さっさと敵を射抜く」ことが目的となります。

20th 9月2018

認識=言葉+感覚

認識=言葉+感覚
という定義があるらしく、非常に納得がいっています。
というのも、認識とは言葉のみではないということ。感覚が人によって異なるために同じ事象でも認識が異なること。
合気もそうで、感覚が異なっていれば合気とはなんぞや?というところの認識が変わって当たり前である。
「実戦」と言ったときに、「実戦の感覚」が無ければ「実戦の認識」が無いのも事実。

感覚を得て、言葉と一致したときに認識が生まれる、というのが「学習」であり、
誰も「認識」していない事象の、よく分からない感覚に対して言葉を当てるのが「発見」であるように感じます。

18th 9月2018

知多四国 海蔵寺から影向寺

 

 

世の中には知多四国を歩いて周る人間が思っているよりいるようなので、日記代わりにログをここに。

知多四国の魅力は、名古屋人が簡単にいけるということと、疲れたらどこでも大体電車に乗れるということ。

電車に乗りづらい区間と言う意味で、難所は常滑から大谷、河和から内海の区間。

昨年末から年始にかけて四国八十八箇所徳島県を周った時に、知多半島の経験はかなり役立ちました。

知多半島を歩いて周れれば、四国はそれほど難しくないです。

知多四国+野犬+サル+熊?+接待=本四国

な印象です。

実際にはそれ以上のものがあるんですが、そこで本人が何をするかで変わってくるので人それぞれです。

 

朝6時40分に亀崎で降りて海蔵寺からスタート。

海蔵寺,18,19,20,21,22,23,24,25,開山所葦航寺,時志観音,26,27,禅林堂,28,43,岩屋寺奥の院,42,40,41打ち止め

周り始めた一番初めのときは1番から88番まで順番に!と思っていたのですが、途中で「日間賀島と篠島の船の時間がどうしても無理」

ということが分かって、それを踏まえた周り方を考えました。

●電車代がかかるので、どうせ周るなら最短日数。

●電車と船はどうしても使わなければいけないけれどバスはなんとなく使いたくない。

ということで、今回は2週目の4日目に相当するのですが、先っちょだけ残して内海に帰るのはそういう理由です。

5日目は半島の先っちょと日間賀島篠島で回る予定です。こうすると島でちょっと遊ぶ時間が出来るはず!?

歩くペースを考えていくと、どうしてもネックになると言うか、ここに無ければあと1日短縮できる可能性があるのに!というのが40番影向寺。

次回楽する為に今回無理に40番をねじ込みました。

今回は41番に着いたのが17時10分。電車の始発なら10分早く着いていたかも?なので冬でも始発ならギリギリコース。

本四国と違って1日に20カ寺あるので、線香・蝋燭・読経・納経所の時間を10分/寺としてもトータルで200分かかるという

ハードスケジュールなので、徳島を周ったときは予定よりも時間的な余裕はものすごくありました。

 

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知多半島は車で行くと道は狭くて脇道も無くてって印象ですが、のんびり歩くといいところです。

04th 11月2017

曹源寺~龍台院

曹源寺~東光寺

東光寺~龍台院

29th 10月2017

知多四国八十八箇所

 

 

知多四国八十八箇所 区切打のすっとばし 4日半徒歩。

 

 

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レコーダーがエラー起こして途切れ途切れ。

一回廻ってみて、4日で歩けないかと思案中。秋冬は納経受付時間が7時から5時になるので、春夏に比べて2時間短いところで4日に短縮するぞい、っと。

 

私の祖父やらうちの先祖は、なんやかんやと弘法大師だのなんだのと縁を私にくっつけて頂いたおかげでですね、結局こういうものを利用するのが「私にとっては」近道かなぁと思いまして。

母方の祖父が知多半島が好きで、大垣の田舎からバスでこの八十八箇所めぐりをしていたのです。そのうちのお寺の一つで、祖父が何かの気まぐれか、孫のうち私だけ、毎年祈祷してもらう手続きをしておりまして、誕生日には弘法大師の身代わり札が送られてくるということになっております。そういう縁がありまして、この八十八箇所は子供の頃から知ってはいたのですが、どうもしっくりこないので行くつもりもまったくありませんでした。が、昨年、知人から納経帳をいただき、それでも行くつもりもなくほったらかしにしていたのですが、ふと今年に入り歩いてみるかなぁという気になって3月に納経帳を持たずに歩いてみました。と、これが意外と楽しく、夏の間は暑いので敬遠しまして、秋になったら廻ろうかとおもっておりまして、この秋1周目を満行しました。

歩いて何かが得られるかと聞かれることもありますが、歩いた結果は人それぞれで、得られることもあるし得られないこともあるし。得られないからと言ってどうということもないですし。

日間賀島・篠島をめぐる日は50kmを歩きまして、こういうのは武術的な足腰のごくごく一部分の鍛錬になりまして、そういうことは得られるところの一つと言っていいかもしれません。

歩いておりまして気づくのは、意外と廻っている人がいると言うことと、ほとんど車ということ、回数をこなすことを目標としている人が多いと言うことでしょうか。廻る回数が少なくなってもいいから、歩いたらいいのになぁ、と思います。が、私も正式に区切り打ちではなくすっ飛ばして最短日数で廻るパズルのような廻り方をしているのでなんともいえませんが、歩くと言うことで得られることがあると思います。

4日で廻れれば一月で一周いけるので、年で10周いけるかなぁなんて考えておりますが、今月のように台風続きだと行けないので半分くらいでしょうか。

 

歩く姿が武でなくっちゃいけません、ということで。